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脳がつくりだす“あなたの世界” 「時間」と「ここ」と「わたし」の真実  生命機能研究科 北澤 茂教授【ひとの正体~奇才たちのスペシャリテ~】

2022.07.28
 究みのStoryZ

「ひと」とは何か? 古来から人々が問うてきた大きなテーマ。 生命は未だ神秘のベールに包まれ、今なおあらゆる角度から挑み続ける研究者たち。
2022年のいま、「ひと」はどこまで明らかになったのか? アンドロイド研究の第一人者石黒浩教授(基礎工学研究科)らが語る 人の正体に迫る挑戦の物語。
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」  ポスト印象派のフランス人画家、ポール・ゴーギャンは晩年に描いた大作に、哲学的なタイトルを与えた。人間は過去・現在・未来という時間を意識しながら、他の動物にない高度な知能を獲得していった。身の回りの出来事とその時間軸を、どのようなプロセスで認識し、記憶として積み重ねていくのか。近年の脳神経科学はAI(人工知能)や哲学の学問領域ともクロスオーバーしながら、「人間とは何物か」という真理に急接近しつつある。この分野で数々の成果を生み出してきた大阪大学大学院生命機能研究科の北澤茂教授に、脳神経科学の現在地を聞いた。
「時間の矢」が逆転する?
この記事を読んでいるあなたの近くに、もう1人誰かいるのであれば、ぜひ試していただきたいことがある。
 必要なのは2人分の身体のみ。人物Aは両方の手を前方に差し出して、両目を閉じる。人物Bは少し時間差をつけながら、人物Aの左右それぞれの手に、叩くなどの刺激を1度ずつ加える。先に刺激を受けたのはどちらの手か? 当然だが、ほぼ100%の確率で正しい答えが出てくるはずだ。
 それでは、右腕と左腕を交差して同じことをやるとどうなるだろうか? 刺激を受ける間隔が0・2秒に近づくと正答率が一気に下がり、過去に起きた二つの出来事の時間順序を「あてずっぽう」でしか答えられなくなる。
 これは北澤教授らのグループが約20年前に発表した研究成果だ。「時間の矢」は過去から未来への一方向にしか流れない。しかし、人間のこころの中の風景は、物理的な時間の進行に合わせて連続的に組み立てられているわけではないようなのだ。
 北澤教授は「人間が『今起きている』と思うことは、しばらくの間の情報を脳に蓄積した上で、『ありそうな解釈』をして構築しているのではないか。そう考えるのが、実験事実に照らしても合理的だ」と説明する。人間にとって「いま」という時間は、おそらく0・1秒から0・3秒の幅の中にあると推定される。
鍵を握る「楔前部」
人間の知覚については、もう一つ、1000年以上前の古来から興味深い現象に考察がなされてきた。
 人間の眼球は1秒間に3回程度、左右に急速に移動する「サッケード」という現象を繰り返している。目をビデオカメラにたとえれば、レンズが激しくぶれた状態だが、脳内に投影される外界の映像がぶれることはなく、世界が揺れ動いていると感じることもない。なぜだろうか。北澤教授は近年、この現象を知覚の仕組みを知る鍵の一つと位置付けて、研究を進めてきた。
 北澤教授らの実験設備は、大仕掛けのゲーム機のような外観だ。被験者は椅子に腰掛けて、頭の位置が固定されている。目の前にはドーム状のスクリーンが設置され、東京・渋谷のスクランブル交差点で撮影された360度のバーチャルリアリティ映像が映し出される。被験者は映像が揺れたらボタンを押すという作業を繰り返す。
 実験をスタートする段階で、視覚情報の処理には大脳の頭頂葉後方に位置する「楔前部(けつぜんぶ)」が深く関係していると推定。局所的に磁場を発生させて楔前部の働きを抑制すれば、眼球が動いた時に世界が揺れて見えるだろうと仮説を立てた。
 実験を繰り返すと、「目の前の世界が動いていないのにボタンを押す」という現象は確認できたが、さらに驚くべきデータが得られた。楔前部がフルに機能しない状態では、数秒前に見た映像を記憶に結びつけることすら困難になる可能性が示され、成果の公表に向けて詰めの作業を進めているという。北澤教授は「楔前部が視覚情報を記憶につなぐ重要なルートに位置している」と推定している。
神経ネットワークの「黒幕」
「脳」は、有史以来、研究者たちの重要なターゲットだ。いまなお内なる秘境である。
 脳の中で言語の表出や理解に関わるのが「ブローカ野」や「ウェルニッケ野」であると明らかになったのは19世紀半ばのことだが、それ以降の脳神経科学はゆっくりと発展を続けてきた。20世紀の終わりになって、「fMRI」( 磁気共鳴機能画像法)を使って脳内の血流動態を知ることが可能になり、脳をめぐるさまざまな謎を一気に解きほぐすための環境が整った。
 楔前部が注目されるようになったのは約25年前のこと。米国人のマーカス・ライクル博士が提唱した「デフォルト・モード・ネットワーク」(DMN)を構成する要素として登場した。DMNは人間がぼんやりして、白昼夢を見ているような状態の時に盛んに働く神経活動だ。しかし、複雑な計算をこなすなど、脳全体の活動が活発になると楔前部への血流量が落ちることも確認されており、その時点では楔前部が重視されるに至らなかった。
 最近10年ほどで、脳内のネットワーク構造を解析する技術が確立され、150億個あるニューロン(神経細胞)のそれぞれが、多数のニューロンとつながる様子がつぶさに観察できるようになった。ニューロン同士のつながりを図式化すると、世界中を飛び交う航空機の路線図のようなネットワーク図が出来上がる。空港の中には主要都市への直行便が発着する拠点となる「ハブ空港」と、行き先が限定的な「ローカル空港」があるように、ニューロンの役割によって、神経回路の密度にも大きな濃淡があることが鮮明になった。
 ネットワーク図を観察すると、中心に位置しておびただしい数の神経回路とつながっているのがDMNであり、中でも楔前部に多くの情報網が結集していた。これまでの予想と異なり、楔前部が神経ネットワークの「黒幕」とする考えが、いよいよ有力になってきた。
領域超え「こころの時間学」
 楔前部が欠かせない部位であることは、人類を悩ます難病からも伺える。
 認知機能に変調をきたすアルツハイマー型認知症の患者は、脳組織にタンパク質の一種「アミロイドβ」が蓄積することが確認されている。そしてアミロイドβがいち早く蓄積されるのが楔前部だという。発症する20年前からじわりと溜まり、認知機能が徐々に侵されていく。
 人間が認知機能を喪失する過程は、認知症のスクリーニング検査の手順で示されている。「今日は何月何日ですか?」というのが最初の質問で、次の「ここはどこですか?」と居場所を尋ねる。認知症では、まず認知の重要な要素である「いま」「ここ」が不鮮明になり、最終的には「わたし」つまり、親しい人の顔や自分と社会の関係性について認識できなくなっていく。人間は、外界の情報を認知しながら「自分らしさ」を形成する。それらを喪失していくプロセスは、楔前部が「いま」「ここ」「わたし」の認知の鍵であることを浮き彫りにする。
 北澤教授は東京大学医学部の出身。学生時代に最も印象深かった授業は、哲学者・廣松渉氏による「哲学概論」だった。単位が取りやすいと周囲に勧められたことがきっかけだが、「関係があってこそ実体がある」と考える「事的世界観」に触れ、人が世界をどう認識するかというテーマに、深く興味を抱くようになった。そして、いま北澤教授が取り組む「時間」の認知の謎を解き明かす大規模な研究プロジェクトには、神経科学、医学分野に加えて、心理学、比較認知科学、言語学、哲学のエキスパートも参画する。2013年から「こころの時間学」を始動し、脳の中の時間マップなどを明らかにした。自然科学と社会科学分野の研究者とも協働して、18年からは「時間生成学」として次のステージに進んでいる。
 ジョン・マクダカートをはじめ、スピノザやカントなど名の知れた哲学者たちは「時間は実在しない」といい、ニュートンやアインシュタインら著名な物理学者たちでさえ「時間」の正体は明らかにできていない。北澤教授らの学際研究プロジェクトは、人類が幾度も挑んできた大きな謎への挑戦でもある。
脳の学習をAIが追体験
近年はコンピュータの高速化、高性能化が一気に進み、AI(人工知能)を組み込んだソフトウェアが将棋や囲碁でプロ棋士に圧勝することも当たり前の光景になってきた。
 AIは人間の脳の構造を模した「ニューラルネットワーク」を多層的に構築して行う深層学習「ディープラーニング」によって、コンピュータ自身が学習を積み重ね、正解を導き出そうとするものだ。新学術領域「時間生成学」で北澤教授が目指すのは、人間が「いま」についての情報を構築する脳の回路を模した「人工神経回路」を構築し、脳内で時の流れがどのように生み出され、失われていくのかを解明することだ。その先に、言語能力をどのように獲得していくのかまでを視野にいれる。2012年にヒントン博士らが出された研究成果で、写真を見て被写体が何であるかを判断するAIを構築して学習を繰り返すと、その出来上がった人工神経回路は、サルや人間の脳と同様の特性を持つことが発表された。
 脳や神経回路は非常に傷つきやすい器官だけに、人体を使った研究の手段は極めて限定的にならざるを得ない。しかし、150億個のニューロンを持つ人工神経回路を構築して、人間が生まれてから成長するまでの過程を体験させれば、100年以上前の研究から進展が難しい人間の言語獲得の秘密、時間の意識を持つに至るまでの謎が、一気に解明されるかもしれない。
 その時はいつ訪れるのか?北澤教授は「手の届くところまできている」と微笑んだ。
北澤教授にとって研究とは
発見の喜び。実験に着手する前に立てた予想通りの結果が出た時もうれしいが、思わず「なんじゃこりゃ」と声を上げてしまうような、全く予想外の結果が出た時の喜びはさらに大きい。それまで誰ひとり着目しなかった「隠された真実」を見つけ出すことで、新たな探求の可能性が広がっていく。

北澤 茂(きたざわ しげる)

大阪大学大学院生命機能研究科/医学系研究科 教授

1987年東京大学医学部卒、91年同大学院博士課程修了、医学博士。93年同大医学部助手、95年電子技術総合研究所主任研究官、2003年順天堂大学医学部教授、11年から現職。 専門は認知脳科学。著書に「医師・医学生のための人工知能入門」中外医学社など。

「ひと」とは何か? 古来から人々が問うてきた大きなテーマ。 生命は未だ神秘のベールに包まれ、今なおあらゆる角度から挑み続ける研究者たち。
2022年のいま、「ひと」はどこまで明らかになったのか? アンドロイド研究の第一人者石黒浩教授(基礎工学研究科)らが語る 人の正体に迫る挑戦の物語。
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