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【前編】何のために学ぶ?何のために生きる?その意味を見出せなかったひとりの女性が、今、阪大生/起業家として、世界の貧困問題に奮闘する。

2024.01.29
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山田果凛さん(やまだかりん) 株式会社Familic
「生まれた環境に関係なく、世界中の子どもが自由に夢を描ける社会をつくりたい」。そんなビジョンを持ち、神戸と沖縄でカフェを運営しながら、時にはルワンダやインドに足を運び、貧困問題に直面している人びとの支援に励む阪大生がいます。人間科学部3回生、山田果凛さん。山田さんは、阪大に入学する直前に「株式会社Familic」を設立し、経営と学業を両立させながら、自身の描くビジョンへ向かって次々にアクションを起こしています。「起業」と聞くと、カリスマ的な華々しい印象を持つ人もいると思いますが、取材中の山田さんからあふれてくる言葉や表情は、キラキラしたものばかりではありません。むしろ心が裂けそうになるような出来事をいくつも経験し、自分の願いを叶える選択肢として「起業」の道を進まれたのでした。山田さんが現在どのような事業を行っているのか、これまでどんな道のりを歩んできたのか。読者の皆さんの未来がうごくきっかけが見つかるかもしれません。

プロフィール

山田果凛さん(やまだかりん)

2001年兵庫県生まれ、タイ育ち。口蓋裂と発達障害を持ち生まれる。親の教育方針のもと、9歳からタイのコンケーンという田舎町(当時日本住人ほぼなし)へ母と弟3人と移住。タイの公立進学中学校に受験し入学したが、「何のために学ぶのか・何のために生きるのか」が分からなくなり2年間不登校・引きこもりを経験する。そんな時に連れて行かれた父のインド出張にて、5ヶ国語を話す物乞いの少年に出会い、求めていた答えを知る。少年との出会いをきっかけに14歳からボランティア活動を始め、継続性を求め19歳で社会的企業を設立。物乞いの少年との出会いとは別に、自身の両親の離婚と家庭崩壊の経験が本気で活動を続ける理由の一つにある。子どもの未来がいかに簡単に、子どもの力の及ばない世界で握りつぶされてしまうのかを当事者として経験する。共感を軸に仲間を集め、「世界中の子ども達が自由に未来を描ける社会」を目指し、沖縄と神戸で「Tobira Cafe」を運営。同世代の仲間と出会うために、事業と学業を続けながら、日本中で講演活動を行う。

山田果凛さんのWebサイト
https://yamadakarin.info/media/
《目次》

▼ 前編

後編
  • 再び、インドの孤児院へ。しかし、成長していない自分に焦りを感じた。
  • 考えても、答えは見えない。チャンスがあれば手当たり次第チャレンジして、アフリカ・ルワンダへ。
  • 会社を設立し、カフェを開業。完璧なスタートを目指すよりも、今できることの最大限を尽くす。
  • 支援したい人と、現地をむすぶ架け橋に。次なる事業を構想中。
  • キャンパスを飛び出して、外の世界にふれてみる。

1杯のコーヒーを通じて、思いやりをルワンダへ届ける。

― 今日はよろしくお願いします!早速ですが、山田さんは沖縄と神戸にて「Tobira Cafe」を運営されているそうですね。どんなカフェなのか教えてもらえますか?
こちらこそ、よろしくお願いします!そもそも、「Tobira Cafe」を開いた背景には、「貧困に喘ぐ人に、豊かな時間が訪れるように、思いやりを届けたい」という想いがあるんです。このカフェでコーヒーを1杯飲むことで、世界の貧困について考えたり、そこに生きる人たちに想いを馳せたりと、その人にとってのカフェタイムがより良い社会への「トビラ」をひらくきっかけになれたらって。
提供しているコーヒーは、実際に私も足を運んだことがあるルワンダの農園から豆を仕入れています。そしてコーヒーの売上の5%は、ルワンダで活動するNPO団体の方に寄付していて、現地の子どもたちの教育環境を整えたり、栄養素の高い食事を届けたり、シングルマザーの雇用を創出する農園の運営費用に活用いただいております。
ルワンダのコーヒー農園ではたらく女性
ルワンダの子どもたち
 

人生のドン底にいた私の心を動かした、インドの物乞いの少年。

― 1杯のコーヒーが、社会貢献につながっている。素敵な取り組みですね。でもなぜ、貧困問題に着目したんでしょう?
そのお話をするには、私の子ども時代からの歩みをお伝えしたいと思います。実は私、小学4年生から中学3年生まで海外に住んでいたんです。親の教育方針で、タイのバイリンガルスクールで学んだ後に、現地の公立中学校に進学しました。これだけ聞くと、「子どもの頃から海外に行ってすごいね!」って思われるんですけど、中学生の時に不登校になったんですよ。
― 何があったんですか?
当時通っていたタイの中学校では、「お金持ちになるために勉強を頑張りなさい」と指導されていて、テストの点数でランキング付けされる毎日でした。その教育のあり方に、疑問があったんです。誰かと比較されて、それ故のいじめも起きていて…。それまで通っていたバイリンガルスクールが自由な校風だったために、ギャップが大きくて自分の心がついていきませんでした。そんな日々の中で、学ぶことの意義が分からなくなって。周りは将来に向けてどんどん成長していっているのに、学びに積極的になれない自分は「なんて生産性がないんだろう。こんな自分、消えてしまえばいいのに」って…。自分の命の存在価値さえも否定してしまうようなドン底にいました。
― それはお辛い経験でしたね。
そんな私に、転機が訪れました。中学2年生の時、父が私をインドに連れ出したんです。生きる活力を失っていた私に、何か変わるきっかけをと思ってくれたんでしょうね。インドに着いたら、父は仕事だったので、私は一人で観光ツアーのバスに送り込まれました。そしてタージ・マハルに着いて、他の観光客が見物しているのを横目にふらふらと街を歩いていたら、ストリートチルドレンに囲まれてしまって。カバンに手を突っ込んできたり、どこまでも後をついてきたりして…困っていたら、「お姉ちゃんごめんね」って、日本語で声が聞こえるんです。「え?誰が日本語を話してるの?」と思ったら、そこには幼い男の子の姿がありました。名前は、アルソン君。「お姉ちゃん、ほんとごめんね」って、また日本語が聞こえたかと思いきや、インドのヒンディー語で何やら話をしていて。次の瞬間に、サーッと子どもたちがいなくなったんです。
― 救いのヒーローですね!
アルソン君との出会い
アルソン君に話を聞くと、日本語は観光客から教えてもらい、5ヶ国語を話せるそうです。死に物狂いでタイ語と英語を勉強した身からすると、7歳くらいの男の子が5ヶ国語も話せるなんて、あり得なかったんですよ。それでつい、「あなたみたいな物乞いがなぜ勉強するの?」って、聞いてしまって。その時の私は、自分が学ぶ意義も、生きる意味も見出せなくて、生産性のない貧乏人はみんな消えてしまえって思っていたから…失礼な聞き方をしてしまったんです。でも、アルソン君は嫌な顔せずに、「お姉ちゃんは知らないよね」って、物乞いの仕組みや実態を教えてくれました。
12〜13歳になったら、観光客に助けを求めたり、逃げたりする物乞いの子どもがいないかを見張る管理職に就くこと。車が運転できるようになったら子どもたちを送迎する役割があること。ノルマを達成できない子どもは臓器売買されてしまうこと。そしてアルソン君は、他の子どもたちが臓器売買されないように、人一倍稼いでノルマを分けていると話してくれました。
その話に、ただ衝撃を受けるばかりでしたね。誰かのために努力する彼は素晴らしいし、「物乞いのあなたがなぜ?」って聞いたことをすごく悔やんで。せめてもの気持ちをと、寄付をしようとしたら断られました。その上、「僕たちが必死なせいでお姉ちゃん観光できなくなってしまったから、代わりにガイドしてあげる。この辺りに詳しいからツアーよりお得だよ」って、手を引いて案内してくれたんです。
― 心打たれるエピソードですね。
そして後ろ髪を引かれつつ、別れを告げようとすると「お姉ちゃん、ここから連れ出して!」と、遠慮がちながらもまっすぐな瞳で助けを求められたんです。でも、その時私はどうすることもできず、その場を去りました。

なぜ学ぶのか?その意味を教えてくれた、国連職員のモヒータさん。

「どうしたらアルソン君を助けられるだろう?」彼と別れてから、帰りのバスの中でずっと考えていたら、「国際養子縁組」という言葉を見つけたんです。それで、その日の夜、父に「アルソン君を養子にして日本に連れて帰りたい」って話したんですね。その場には、国連で働いているモヒータさんという方もたまたまいて、「何を一生懸命話しているの?」と、私の話に耳を傾けてくれました。私が英語で想いを伝えたら、「アルソン君が100人いたらどうするの?」って。
― 実際、困っているのはアルソン君だけではないですもんね。
私はその時、「アルソン君を助けたい」と彼のことだけを考えていました。だから「100人」と言われて、そんな人数、無理だって思ったんです。
そしたら、「なんで無理だと思うの?今はできないから、学ぶんじゃないの?」「つくりたい未来があって、でも今はできないから、実現できるように学ぶんでしょ?」って。ハッとしましたね。今まで、何のために学ぶのか分からなくて、暗闇の中を歩いていた自分に光が差したような気持ちでした。誰かと競争するためでもなく、お金持ちになるためでもなく、「自分がつくりたい未来のために学ぶんだ」。心の奥底から、「学びたい!」という意欲が湧いてきました。
― 山田さんにとって「つくりたい未来」とは、どんな未来なんでしょう?
その時点では、まだ明確に言葉にできてなかったんですけど、「アルソン君のような子どもを100人助けられる人になりたい」と思っていました。
― 無理だと思うのではなく、「やりたい」「できる」と思えるようになったんですね。
けれど、学ぶといっても何をどう学べば良いのか分かりませんでした。だから、モヒータさんに聞いたんです。「すでに実践されている人を紹介してくれませんか?」って。すると、インドで孤児院をひらいて500人もの子どもたちに食や教育の機会を与えているインド人の女性を紹介してくれました。そこで、学校の春休みのタイミングでボランティアに行こうと段取りをして、1ヶ月インドに行きました。

アルソン君から託された想い。自分が行動を起こす、使命感に。

― 紹介してもらって、すぐインドに行こうと思える行動力、決断力がすばらしいですね!
それも、きっかけがあって。モヒータさんと別れた後、またアルソン君に会いに行こうと観光地まわりをうろうろしていたんです。でも、1時間探し回っても見つかりませんでした。その場に連れて行ってくれたドライバーに事情を伝えたら、「もう彼はここにいないよ」って。話を聞けば、ストリートチルドレンに愛着を抱いて養子にしようと思う外国人観光客がいるのはよくある話で、でも物乞いの子たちを雇っている側からすると、国際養子縁組にされるのは面倒なことらしいんです。だから、15分以上、外国人観光客と話をした子どもは、別の場所に連れていかれるみたいで。私、アルソン君にガイドしてもらったので30分くらい彼と話しているんですよね。それに「連れ出して」って、助けを求められたりもした。きっと、その様子を管理職の人が見張っていたんですよ。だから、別の場所に連れて行かれたんだと…。でもそのシステムを、アルソン君が知らないはずがない。
― アルソン君は、それを分かった上で山田さんに想いを伝えたんですかね。
すごく託された気がしたんです。「アルソン君のような子どもたちを救いたい。絶対形にしなければ!」って、決意を新たにした出来事でした。

ロールモデルとの出会いで、「夢」が「目標」に変わった。

― インドで過ごした1ヶ月間、どんな経験をしたんですか?
インドの孤児院で、1か月住み込みのボランティアを行いました。そもそも、孤児院をひらいて500人もの孤児を守ってる人って、きっとお金持ちとか、特別な人なんだろうなと思っていたんですよ。でも実際お会いしてみたら、そうではなくて。一般の女性なんだけれど、通学の帰り道にスラム街に寄って子どもたちに鉛筆とノートを配り、文字を教え、文字が書けるようになったら子どもたちを学校に入学させてほしいと直談判して。でも学校でいじめが起きて、ならばと自分で建てた学校にも火をつけられ、それでも諦めずに借金をして土地を買い、学校を再建した。生徒は15人、30人、100人と増えて、今では500人もの子どもたちがいる。
訪れた孤児院で折り紙の先生をした時の様子
私、モヒータさんにはじめは「100人なんて無理」と言ったけれど、実際に成し遂げている人に会って、夢が目標に変わりました。お金や権力があるからできるんじゃなくて、作りたい未来は、自分の行動の積み重ねでかたちにすることができる。それを、インド人の女性は教えてくれたんです。
孤児院を運営するウーマさん。
― さらに決意が固まったんですね。
「さまざまな制約や逆境がありながらも一生懸命やってきて、今これが私にできる最大限なの。あなたはこの先も勉強して成長できる環境があるし、活動を大きく広げていける。あなたなら、もっとできるから」。そんな言葉も彼女からもらって、ますます前を向くことができました。

学校に通えない、家庭環境も悪化…自身も貧困の当事者に。

当時、私は不登校でしたが、「学校に行って学び、成長したい!」と気持ちが大きく変わっていました。その矢先、急に中学校を退学させられたんです。原因は、母のネグレクト。私が知らないうちに、母が退学届を提出していたみたいで…。家庭環境も悪くなるばかりで、私は一緒にタイに来ていた弟たちを連れて日本へ帰ることにしました。どうにか、国内で通える学校が、自分を受け入れてくれる学校がないだろうか。いろんな施設に1本1本電話をかけて、支払える学費を伝えながら、入学の交渉をしました。学ぶことを、どうしても諦めたくなかったんです。結果、沖縄にあるインターナショナルスクールから入学の許可をいただいて、私たちは沖縄で暮らすことになりました。
― 逆境の中、山田さんは行動し続けたんですね
学校に通えるようになったのは良かったんですが、両親が離婚して、父が生死をさまよう病気を患っていたこともあり、私たち姉弟は保護対象のリストに名前が載りました。行政の人が、「弟さんを預かります」って家に来て、私は家の鍵を閉めて幼い弟を抱っこし、泣きながら時が過ぎるのを待つ日が続いて。まさか、自分が保護や支援を受ける対象になるとは思ってもいなかったので、心の整理がうまくできないまま、ビジョンを追いかける気力を失いそうになったんです。
そんなときに、私を奮い立たせてくれたのが、インドの孤児院で出会った子どもたちでした。「夢叶ったよ!」って、連絡をくれたんです。医者になりたいと勉強していた子が医薬系の大学に入学したり。シェフを目指していた子がドバイでシェフとして働いていたり。そうやって頑張っている姿にふれて、置かれている環境に関わらず、最大限の努力を積んで、未来をひらこうとしている人への強い憧れを抱きました。
>後編へ続く
 

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