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マチカネヤマってどんな山?

2020.08.20
 Dr.Wani
マイハンダイアプリをお使いの皆さん、どうもこんにちは。ワニ博士です。
受験生の皆さんは、はじめまして。「アプリdeオープンキャンパス」は終了しましたが、マイハンダイアプリは引き続きずっとお使いいただけます。桜咲く頃、阪大IDで学内モードにログインできますように!
6月の「新入生交流会」でのワタシです。(阪大ウェルカムチャンネルより)
さて、この連載コラムではさまざまな博士号を持っている「究極のすっぴんマスター」ことワタシ、ワニ博士が、皆さんの素朴な質問から高度な疑問、軽い相談から深いお悩みまで語尾に「だワニ」と言わずにお答えしていこうと思います。
お久しぶりの第4回。質問はこちら。

Q.

このマガジン『まちかねっ!』って名前で、阪大のある「待兼山町」が由来だと思うのですが、そもそも「マチカネヤマ」ってどんな山なんですか?
(心は高校生)

A.

ほう。受験生の方でしょうか……と思いましたが「心は」と書いてあるのできっと受験生にかわって質問してくれたのでしょう。ありがとうございます。
ご明察のとおり、この『まちかねっ!』は我らが阪大豊中キャンパスの「待兼山まちかねやま」から着想を得て、阪大生の皆さんが記事の更新を「待ちかね」るマガジンを目指すというコンセプトのもとネーミングしました(by編集部)、ということのようです。
それで、「マチカネヤマ」って一体どんな山なのか、ですね。先週は「山の日」でした。阪大キャンパス未踏の方にもその正体をご説明しましょう。

待兼山は、豊中キャンパスの中にある?

阪大生の皆さんがイメージする「待兼山」は、豊中キャンパスマップの左上のあたり、「阪大坂」周辺でしょう。
この深い緑のエリアの中に、実は待兼山の山頂が存在します。標高は77m。単なる地名ではなく、正式な「山」なんですね。
石橋阪大前駅から豊中キャンパス中心部へ至るには阪大坂を登るわけですが、きれいに舗装されたゆるやかな坂道ですので、ひとまず受験生のかたはご安心を!
学術界のアイドルたちが駆け抜ける!
余談ですが少し前に、どこからどこまでが阪大坂なのか?をマジメに調べていた「石橋曖昧計量学会」という阪大生たちもいらっしゃいました。阪大との付き合いが深まるほど阪大坂は「長くなる」という調査結果、かなり興味深いです。
阪大坂とは別に、緑の中をずんずん進める遊歩道もございます。
待兼山登頂を目指すなら、こちら。(待兼山の四季 -夏- 総合学術博物館 大橋哲郎 2005-07-28 撮影 より)
コナラやアベマキなどの落葉広葉樹、そしてアラカシ、シイ、クスノキなどの常緑広葉樹が茂り、季節の表情をつくります。面積が小さく孤立した林であるため、大型の野生動物はほとんどいないのですが、数多の昆虫たちが生き続けている里山です。
豊中キャンパスにある待兼山は、大阪北摂の閑静な住宅街の真ん中に残る、豊かな「学校の裏山」そのもの。
と、ここであえて約80年前の航空写真を、国土地理院のサイトで見てみましょう。
現在の豊中キャンパス周辺の、1936~1942年頃に撮影された空中写真です。(地理院地図より)
左上の黒い+マークが、待兼山の山頂です。画面全体に大きな細長い三角形で、ゴツゴツとした山の地形を窺うことができます。現在の豊中キャンパスは、この山の左上1/4くらいにおさまってしまいます。そう、待兼山が豊中キャンパスの中にあるのではなく、豊中キャンパスが待兼山の中に存在しているのです! 「待兼山∈豊中キャンパス」は実は誤りなのであり、「待兼山⊃豊中キャンパス」が正しい認識と言えるでしょう。
ちなみに阪大の3キャンパスの立地についてはこんなトリビアも。
(阪大NOW No.151より)

この山に積み重なってきたもの

北を箕面川、東と南を千里川に挟まれた待兼山には、積み重ねられた歴史があります。というか、遺跡と物語の宝庫です。ざっくり振り返りますと……

ワニの頃:約45万年前

全長7mの巨大なマチカネワニが生息していました。とはいえ熱帯雨林だった訳ではなく、現在とあまり変わらない植生と気温だったよう。
え? まさかマチカネワニを知らない……? 「だワニと言わないっ! Vol.1」を復習してくださいね。
マチカネワニ化石標本
国の登録記念物ですよ。(大阪大学総合学術博物館HPより)

古墳の頃:約1500年前

5世紀後半に築かれた直径15mの円墳「待兼山5号墳」をはじめ、多くの古墳が待兼山に。葬送の地でした。
阪大坂下の駐輪場付近にあった待兼山5号墳の遺跡からは、円筒埴輪の他にも馬や人物、建物を模した埴輪などが出土しています。
かわいいね ₍₍⁽⁽🌵₎₎⁾⁾ (大阪大学総合学術博物館HPより)

歌枕の頃:約1000年前

清少納言の『枕草子』の「山は」の段にとりあげられて有名になった待兼山。歌枕として多くの和歌に詠みこまれ、その一部は勅撰和歌集に収録されるなどして、来ぬ人を待ちわびる山というイメージが確立。
津の国の待兼山の呼子鳥鳴けど今来いまくといふ人もなし
[古今和歌六帖]

こぬ人を待ちかね山の呼子鳥おなじ心にあはれとぞ聞く
肥後[詞花和歌集]

夜をかさね待ちかね山の時鳥雲井のよそに一声ぞ聞く
周防内侍[新古今和歌集]

明くるまで待ちかね山の時鳥けふも聞かでや暮れむとすらむ
藤原顕綱[続後拾遺和歌集]
キャンパスが歌枕とは風流ですよね。さらに豊中キャンパスの「カフェテリア かさね」はこの周防内侍の歌に由来している、と。
おしゃれですね。ここで珈琲を飲み、待兼山の歴史を感じながら歌を詠みたいものです。

浪高の頃:約100年前

待兼山に学生が集い始めたのは、1927年に大阪府立浪速なにわ高等学校の校舎が建設されたころから。いわゆる「旧制高校」ですね。「浪高ナミコー」と呼ばれ、バンカラな学風だったようで。
現在の大阪大学会館となっている建物は、当時の浪高本館です。 先ほどの約80年前の航空写真にもばっちり写っていますね。

阪大の頃:約70年前~

浪速高等学校は1949年に大阪大学に併合され、校地は一般教養部と文系学部のキャンパスに。
その後、開発が進み、現在の豊中キャンパスの姿となりました。周辺も住宅地として発展し、待兼山の自然はキャンパス内を中心に残ることとなりました。
これはキャンパス西側上空から眺めた写真ですね。基礎工学部・理学部の校舎が建ったばかりの頃でしょうか。
ここに紹介した歴史は、ごくごく一部。他にも、弥生土器が出土していたり、焼物の生産地だったり、ため池を巡って裁判になったり、 はたまた、浪高出身の実業家が自らの競走馬の冠名に「マチカネ」と付けて一世を風靡したり……。
時系列順に並べると、逞しい自然から、徐々に「想い」をもった人の手に引き継がれてきた待兼山の姿が見えてくるのです。
待兼山の麓にある総合学術博物館を訪ねていただければ、さらに詳しく専門的な解説とともに、化石や土器や古地図など様々な実物を間近に、いつでも(常設展示です)見ることができます。いや、太っ腹ですね。

待兼山、なう

大阪大学となった待兼山は、大阪大学で生みだされた学びや研究を象徴する代名詞となっています。
刊行物
『待兼山論叢』:文学研究科が発刊している論文集
『待兼山PRESS』:大阪大学21世紀懐徳堂が発行している豊中市・待兼山の「お宝」を紹介するフリーペーパー
『まちかねっ!』:このマガジンですね。
建物
待兼山修学館:現在は総合学術博物館となっている建物の名称。1931年に大阪医科大学の附属病院石橋分院として建てられました。
待兼山会館:明道館の奥にひっそりと佇む職員会館。知る人ぞ知る美味しいカツカレーが食べられます。
イベント・サークル等
まちかね祭:毎年秋に開催される、大阪大学最大の学園祭。今年はどうなるのでしょうか。
待兼山文學会:2013年創設の活発な文学サークルです。
まちかねこ調査隊:豊中キャンパスに多数生息する野良猫たちを「まちかねこ」と呼び、観察されています
現代、この待兼山を輝かせているのは、まさに阪大のエネルギー。阪大生あっての待兼山……だったのですが、2020年の春はおよそ100年ぶりに、静かな静かな山になってしまいました。
人の行き交わなくなったキャンパスのあちこちには、苔も生え始めています。自然の生命力に驚きます、が……
ふたたび待兼山に、阪大生の皆さんが集う日がきてほしい!
どうにもならない新型コロナウイルスの情勢次第ではありますが、ワタシはひとり、そう願うばかりです。
登るのに少し疲れる阪大坂は、待兼山そのもの。その斜面に織り重なっている歴史を、自らの一歩一歩で感じながらキャンパスに到達することには、意味があるものと思います。
感染症対策には色々気を遣わなければなりませんが、門は完全に閉ざされている訳ではありません。ぜひ積極的に、この山に登ってください。待兼山はいま、阪大生の皆さんを待ちかねているのだワニ~。

Dr. Wani 🐊

著者近影(カフェテリア かさねにて)
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Dr.Wani